(オフィス・デザインは全て明石本人が手がけた)

 

風の如き侍達の新たなる戦い

 

 2003年4月の統一地方選を目前に控えた2月19日深夜、私と当サイト編集者の田中は大町40番地にある旧K坂呉服店店舗内にいた。昨年秋に二人で下見に来て『ここに事務所を構えて戦おう』と決めた場所である。細長い店舗内は間口こそ狭いが奥行きはゆうに30メートル以上ある異色のレイアウトだ。私のここでの執筆以外にも、このオフィス開設までのドキュメントとして、編集者のサイト『まいんどふぃーるず』にも彼の視点から見たコーナーが用意さる予定である。時間の許す方は是非そちらも一読していただきたい(6月10日頃までにアップされるようである)。

    

(この奥行きをどう生かすか?)    (レスト・スペースも重視する)   

 

 今回の開設にあたって当初より描いていたイメージコンセプトは大別して以下の3つである。

@若者らしさは勿論だが、機能性をより重視したオフィスづくり

A何者にも屈しない孤高のサムライ・スピリットが溢れるオフィスづくり

B外からでも一目でレイアウトを一望できる透明感のある潔いオフィスづくり

 これらを主眼に4年前のインパクトのある事務所に引けをとらない、現職議員としてのイメージを損なわずも斬新なレイアウトの事務所が完成した。

    

(BGMにはLPを多用)  (政見や写真も多数展示)  (冷蔵庫の買出し要請ボード)

 

     

(キャプテン・アメリカは今回も健在)  (ウィンドウには愛車V-MAXが・・)

 

 候補者乱立の大激戦が確実となった今回の選挙戦告示までの後援会活動が雌雄を決すると言い切っても決して過言では無い。初めて選挙戦を戦った4年前のあの日々からはもう随分経っている。スタッフももう殆どが30代になった「あの時は何より初出馬の勢いがあった。2期目のジンクスなど信じてはいないが果たして大丈夫だろうか?」・・・そんな不安が日夜脳裏をかすめる。だが、そんな私の懸念を払拭するに余りある一騎当千の侍どもが次々と集結してきた。

 当時選挙に関しては右も左もわからぬ若者達はこの4年間で確実に成長を遂げていた。

   

(スタッフの成長にはただただ驚愕) (記録保存用DVDの制作風景)

 

 後援会活動の根幹を成す会員募集活動と広報活動では完全ともいえる区割りが構築され、おかげで私は安心して挨拶周りをする事ができた編集者をチーフとするメディア事業部の広報紙印刷ミッションは連日多忙を極め、その大量の広報紙『明石ひろやす市議会レポート 地域の皆様とともに』は、街宣事業部の若者達の機動力を駆使した配布活動により僅か2週間で市内3,000戸以上にポスティングされた。

     

(告示前は機密扱いだった配布用マップ)  (親友と共に地元全戸ローラー作戦)

 

 この広報紙「明石〜」はその配布エリアにより特集内容が異なる工夫が施されており告示前の後援会活動の中で最も評判が良かった。後援会事務所に初対面の市民の方達が訪れ、「あのビラは良かった」と言われる事も度々あった。ポスティングにあたっては私も連日出撃したが、原チャリは最高の配布マシンであった。自分の地元のみに限らず、その効果を案じる暇があるならと、市内全域ところ構わず配布しまくった。

   

(16年選手の愛車タクトも大健闘!!)  (1回の出撃で200件以上配布する)

 

 年始の刊行から配布を続けてきた議会報告集『明石ひろやす 30代青年議員 この3年半の歩み』は旧知の知人や新しい後援会員、挨拶回りと併せた地元エリアへの全戸配布などで、用意した2,000冊は意図的に残した100部を除いてあっという間に無くなった上記の広報紙と報告集と併せて5,000戸以上に何らかの紙面で私の市政報告が行われたこれは市内の全世帯数の20%以上に及ぶ。これは松橋日郎議員が地元新聞への折り込みビラという形で行った広報紙配布に次ぐ数であろう。私は新聞折り込みでは読んでもらう確率がポスティングより低いと考え(ポスティングしていれば自ずと市民に出会う、挨拶してお願いかたがた配布できた方が読んで貰える確率が高いに決まっている。期間中にこうして偶然行った挨拶&配布数はかなりの数に達した)、敢えて苦労の多い配布方法を選択した

 (強固で磐石な組織推薦を持たない青年議員の私は、こうして浮動票を獲得する為に日々街に繰り出すしか激戦に勝ち残る術は無いのだ!!・・・)

 

 こうした広報活動の傍ら、後援会長木次谷を筆頭とする会員募集事業部市内全域を奔走して名簿集めを行った。大きな選挙でありがちな「付き合いで名前だけでも頼む」みたいな漠然とした名簿集めでは票読みなど当てにはならない。この方針の下、集まった総数は低くても信頼度の高い・・何物にも替え難い・・私達の努力の結晶とも言うべき新しい後援会名簿はこうして次第に出来上がっていった。この間オフィス業務は私の妹は勿論、木次谷夫人に加えて、私が理事を務める日専連おおだての職員O笠原らによる女性スタッフが山積する業務を見事に遂行した。

        

(事務業務では大活躍をしたO笠原女史) (料理もスゴ腕!!恐るべし新入スタッフ)

 

 

(木次谷夫人とは究極コンビ、通称「グル」)

 

 結果、我々若手の集団は大きな後援会を構えるベテラン同僚議員達と比べても遜色ない活動システムを構築した。私があれこれ何も言わずとも、今までとは比較にならないしっかりした役割分担が出来上がっていた。この4年間で我々は企業ベッタリでも何でもない、新しい手法の独自の、若者達の選挙のプロ集団になりつつあった

 

 我々の主力メンバーは全事業部を併せて20名もいない。これで台風の目として再び選挙戦に突入するのだ。この少数精鋭の侍集団でしがらみ満点の地方選挙のサバイバルで勝ち残るのだ!!前回同様に我々の票読みができる他陣営は皆無と言ってよかった。当落線上との厳しい意見も一部にあったが、私達が様々な論拠を基に協議を重ね、告示直前で叩き出した最終予想獲得票は1,250〜1,300票ほどであったこれは現在の大館市議選において十分に当選できる票数であった

 

 前回の落選確実との下馬評ムードとは一転して、手応えは決して悪くはなかったこの時点で何と200票以上もの票を読み違えていた我々は、開票日での大混戦、大苦戦、そしてある意味での大敗北など予測できる筈もなかった

 こうして連日激務での疲労感はありならがも、終始笑顔を絶やさず我々は告示日を迎える事になる。1,044票での辛勝など、当時の私は知る由もない。風の如き侍達の、新たなる戦いでの大勝利を心から確信していた・・・。

 

2003年5月26日

唯一の30代若手市議候補で挑んだ・・ 明石ひろやす