福原じゅんじ
1995年4月、大館市議会議員選挙で私は後輩の福原淳嗣を応援した。当時の彼は若干まだ27歳であった。東光グループが縁の下の力持ちとはいえ、選挙戦は困難を極め序盤戦の感触は決して良いとは言えなかった。しかし後半戦に突入するにつれ、「頑張れ!!」、「若者が参政しなくてはダメだ!!」等の熱烈な応援が寄せられ、その重責にスタッフもヒート・アップ、勝利を勝ち取った。

若者の参政の第一歩を記した。
選挙中彼が掲げた公約「リサイクル産業の創出」は、6年後の現在当市の主要プロジェクトに組み込まれるなど現実のものとなっており、彼の政務手腕の高さは特筆に値する。私が参議院議員金田勝年事務所を訪れ、地方秘書をする事になったのも彼の紹介があったおかげである。自由民主党大館支部青年部部長を務め、保守系のホープと言えば悔しいかな彼の事である(対して私はさしずめ保守の弁慶、自民党の用心棒と言ったところか)。

二人組めば若手最強?
今は同じ保守系ながら所属会派を別とし、お互いに切磋琢磨し合えるイイ意味でのライバル関係である。2年前の市議選で我らA・WIND!!は圧倒的企業推薦、組織力を誇る彼の陣営に挑戦したが328票もの大差で敗れた。これからも何度にもわたって続くであろう宿命の勝負である。いつの日か彼と大舞台で相まみえる日がくる事を何となく運命と感じるのは自分の思い過ごしであろうか?

やはり思い過ごしかもしれない・・・
さらば盟友!!
0勝1敗負けっ放し人生!?

平成14年12月定例議会が閉会してほどなく、当市市議の福原淳嗣氏が記者クラブにて会見、翌春の市議選には出馬しない事を正式に表明した。
15年春より、衆議院議員野呂田芳成代議士の公設秘書として、東京の議員会館にて勤務する事が決定している。
このコーナーでも以前触れているが、私は11年の改選でジュンジに大敗した。我々「A・WIND!!」はジュンジの「J・CREW」に、次世代参政というイイ意味での拮抗する勢力づくりを目指して再戦に燃えてきた。だが過日の会見によりリベンジ・マッチ!?は不可能となり、市議選において私は後輩に0勝1敗の生涯負けっ放しが確定してしまった(超涙)。
平成7年に話を戻そう。『4月の市議選に出馬してみたい。例え力及ばずとも知名度が上がれば11年の改選ではきっと勝利できるだろう。』と画策していた私の店にジュンジが訪れた。『先輩、力を貸して下さい!!一緒に頑張って下さい!!お願いします!!』・・・当時27歳の彼からの言葉は鮮烈で今でも忘れる事ができない。『もし二人が同時に出馬したらお互いに足の引っ張り合いになって、最悪二人とも落選してしまうかも知れない。』・・・そんな経緯もあって激しく悩んだ結果、ほどなく私は出馬を断念、「J・CREW」の一員として彼の市議選をサポートする事を決めた。
「フクハラジュンジ!?誰それ!?」、「明石、お前地元の候補応援しないのかよ?」、「27歳?実動スタッフは若手中心?そんなんで勝てるほど地方選挙は甘くないぞ!!」・・・かくして大館圏域では前代未聞の、だが次世代参政の夜明けとも呼べる歴史的な市議選が幕を開けた。
選挙カーは何とマーチ、ジュンジの弟が運転手、候補者ジュンジ、うぐいす嬢は素人同然の会社員数名のローテ、ジュンジの友人小棚木政之氏がカラス、そして乗れる時は私も乗った。併走車などある筈もなし。誰もが家を出てきて歓迎してくれる・・そんな強固な地盤も一切無かった。辻説法ならぬゲリラ街頭演説が唯一の必殺戦法である。
『21世紀の大館を始めよう!!リサイクル・マイン・パーク事業を主軸とした環境産業による街の再興を!!』・・・道行く通行人は???、横で彼の叫びを聞いてる私も???、恐らく誰もが???。ジュンジの演説は数年後を見据えた確かなものであったが、当時は市民、市当局、ライバル陣営、プレスはもとより私を含むジュンジの運動員まで、恐らく誰一人彼の真意を理解できる者はいなかった。
それでも、福原淳嗣市議候補は懸命に叫び続けた・・・。

ライバル不在で暴走寸前!?
これぞまさに『A−狂う(CREW)!?』
11年の改選で私が当選してから現在に至るまで、最も印象に残ったのは14年の6月定例議会だ。農地転用事件で逮捕された元市議の有罪が確定し、その違法農地の処遇をめぐって当市議会は大混乱の様相を呈していた。私は同僚議員らと共に真相究明を求める決議案を提出、特別委設置の賛成討論者として登壇した。
迎え撃つ反対討論者は、他でもないかつての盟友福原淳嗣議員であった。決議案採決の数日前、庁舎でジュンジと会った。数日後に本会議場で互いの持論をぶつけ合う二人、かつて共に街頭に並び立って叫んだ二人、近所で先輩後輩の二人・・・。彼の討論の骨格を聞き、私も討論の本旨を語った。
『法解釈VS感情論』、賛成少数により決議案は否決されたが、私とジュンジには確執は無かった。不遜な表現かも知れないが、敗れはしたが私はこうしたライバルがいる事を心から感謝した。(否決された悔しさや無念さ、無力感は勿論大きかったが)討論相手が福原淳嗣議員であった事に、その是非を問う大一番の舞台で若手二人が意見を戦わせた事には、当市の次世代による政治への大きな可能性を感じた。
こうしたジュンジとの真剣勝負がこれからも幾度も続いていくであろう事にサムライ・スピリットは燃え上がった。
来年の市議選の場に彼はもういない。自身の大きな夢に向かって飛翔するジュンジに、私が今できる事は・・・
@「俺を置いてどこへ行く?来年も勝負しろ〜!!」と意味も無く叫んだり、
A「公設秘書?俺と違って随分スゲー扱いじゃん!!」と身の程知らずなヤキモチ妬いたり、
・・・する事などでは決してなく、心からのエールを彼に送る事である。春からは私なんかには想像もつかぬ心労や苦悩の日々が始まるであろう。
でもそんな時には是非思い出して欲しい。指を指されて笑われた事、冷笑を浴びながらも見事当選して初登庁した事(私も全く同じだったぞ)、ジュンジの叫んだ公約が7年後の現在、当市の主要施策の一つになった事、
そして、秋田県には君の仲間やライバルがたくさんいて、飛翔したジュンジの大きなカムバックを待っている人間がいっぱいいる事・・・。
精一杯悔いのない秘書生活をして、いつの日か郷里に骨を埋めに戻って来たら、また同じ選車で街に繰り出して、また一緒に街頭に立とう!!
『エネルギー全開120%!!波動砲状態の炎の応援弁士をお捜しならここに一人いるぜ!!』と言えるように私も更に武者修行を積んで待っているぞ!!
さらば盟友!!さらば我が最強のライバル!!
0勝1敗負けっ放し野郎 明石宏康
仲澤誠也氏や八木橋雅孝氏、武田一俊氏や松橋日郎氏などなど、当サイトにて私が個人名を伴って申し述べた部分については、当然の儀礼として必ず本人の承諾を得る事にしている。このコーナーについても掲載後の確認をお願いしたところ、福原淳嗣氏本人より以下の投稿をいただいたので紹介させていただく。
『明日を見つめるパイオニアへ』
「議員はいつか消えていく、でも正しい政策は必ず生き続ける」と私は信じています。老若男女を問わず、人は輪廻を繰り返します。どんなに若い議員であってもいつか必ず終わりは来る。でも、正しい政策はまちに残り、人を、故郷を、そしてこの国を豊かにしていく。<政治家ではない、政策が主役の政治を!!>この想いは八年経つ今でも変わりありません。
「よし、淳嗣やろう!!」明石宏康はそう言うとニッコリと肩を叩いてくれました。八年前です。たった二人で選車に乗った日もありました。冷たい風、行き交う人々、そして雨の投票日、全てを覚えています。夢の様ですが、間違いなく私たち二人は大館の明日を信じて、闘った。そう、自分たちが掲げる旗の下に。その旗は<大館をしてこの国、日本の未来を創る!!>という大儀です。
それから八年…。
<この故郷、秋田をしてこの国、日本の未来を創る>この想いがあればこそ、私は公設秘書の道を選びました。国においては省庁の大改革、都道府県では道州制の導入、そして市町村では合併。民の安寧を保障する行政という仕組みが大きく変わろうとしています。今こそ政治がその行くべき道を指し示すべきです。同様に、大館もそして秋田も、臆することなく、人を、民を、そして地域を統べるべく誇りと責任を持って、リーダーとして立ち上げるべきなのです。間違いなく私たちの故郷は可能性に満ち溢れています。そして、私たちの紡ぐ言葉こそ日本を導いて行くと信じます。
明石宏康は地方の時代を切開くパイオニア(開拓者)です。明石宏康の行動力、情熱、そして志こそ、地域の明日において大いに求められるのです。激動の平成は明石宏康を必要としています。今までに無い発想と、桁外れの行動力。私たちには明石宏康が必要です。
私は、共に地域の明日を信じる同志として、明石宏康を応援します。
先輩!ありがとうございました。いつの日か再び共に立ち上がりましょう!!
福原 淳嗣