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 私の市政報告に入る前に、市民の皆様には普段わかりにくい、自分が初めて体験した範囲での会派についての話をさせていただきたい。その前段の下りを少し・・・(編注:少し?)

 以前政治の勉強を兼ねて、本県選出の参議院議員金田勝年氏の秘書(北秋田)をさせて貰った事がある。総会や式典や会議の代理出席、後援会の企業の募集、情勢報告やパー券売りなど業務は様々であったがとにかく勉強になった、何せリハーサルやシュミレーションの一切ない、全てが即本番であったのだから。

 ある日料亭で小畑市長に「國昭さん(私の父)は君の政界入りに賛成しているのか?」と聞かれたが真意がようやく今頃になってわかる(笑)。当時家族の葬式すら経験のない私にとって、遺族会への来賓代理出席はかなりの冒険であった。献花の作法もわからずに困っていた私に優しく声をかけてくれた当時の県遺族会役員は、何と後に運命的に出会う事になる仲澤誠也氏であった。

 秘書時代のエピソードは尽きない、鹿角市で行われた冬季国体に雅子妃殿下がお越し下さる事になり、佐々木知事や大館の鈴木県議らと共に専用列車でのご到着をお出迎えする為花輪駅構内で待っていた時の事。
 外は妃殿下を一目見ようと黒山の人だかりで構内は上着のボタンを外した屈強なシークレット・サービスがひしめいている。「雅子さまが来たら声くらいかけてもいいだろう」と至って緊張もなくジョークを飛ばして元気がいい鈴木県議に対して、一介の陶器屋の私は「とんでもないところに来てしまった、早く帰りたい。」と後悔しきりであった。
 でもふとした好奇心、ここで不審な動きをしたらどうなるんだろう?から止せばいいのに私は入り口付近で自分の上着の内ポケットに手を忍ばせてみた。その時!向かいのビルの3階の暗闇に何かが動いたのが見えた、こちらを覗いているようだ。何と狙撃者がライフル片手にほぼ間違いなく自分の方角を見ている、多分真後ろに立ってるSPも・・・。怖くて振り向く事すらできず固まってしまったのが今ではかなりの笑い話である。暗殺やテロの少ない日本の治安を実体験したというか、見てはならないものを見てしまったような気がする。

 話がそれたが、とにかくこうした下積み時代は1年以上にも及びその間私は自由民主党どっぷりの生活を送った。良くも悪くも秋田県最大勢力の保守自民党の中で私は研鑽を重ね、出馬の機会を待った。

 選挙が終わって間もなく当選証書を付与され、議場で集合写真を撮影して私の議員生活は始まった。

 市長与党との括りが入る会派は最大派閥『平成会』と、私の後輩で多分永遠のライバル福原も所属している『新風クラブ』。さて、どうしたものか?一匹狼的な異彩を放つ八木橋氏が前回の落選をバネにトップ当選での返り咲きを果たしており、私は氏と二人で新会派を結成して頑張る事になるのだろうかと考えていた。同期で当選した仲澤誠也氏には「一緒にやりたい」との旨を申し入れたが、私の独断に限らず誰もが氏の平成会入りは確実と読んでいた。

 福原氏からの新風クラブへの勧誘の電話は連日来ており、近所の石田氏からも同クラブへの誠意ある歓待の意を表されている。今回の選挙戦でシノギを削った同じ地元の平成会の花岡氏からもお誘いを受けており、新会派結成を街頭で連日叫んだとは言え実のところ多少の迷いはあった。なぜなら、自由民主党に浸かり過ぎていた自分には、二人会派など作っても数で圧倒されるのがオチだという気持ちがあった。

 その「数の論理」それ自体が語弊はあれ議会制民主主義の正義の思想の根幹であり、自民党のいつもの必勝戦法でもあり、その数による横暴が同時に最大の危惧でもある事はわかっているのだが・・・。

 しかし予期せぬ事が相次いで起こった。「市長と議会には適正な距離があって然るべき」との認識のもと仲澤氏が既成会派への入会を躊躇していたのだ。そして八木橋氏に新人の石垣氏が合流、対抗勢力結成の可能性を模索し始めた。選挙直前に交通事故(何と相手は私がよく行く床屋である、示談でモメている時は双方に都合が悪かった)で入院中の大坂谷議員が新人の武田議員と合流、こちらの動きに興味を示していたのだ。この流れに改選前の農転事件調査委設置騒ぎで新風クラブを除名された佐々木氏と菅氏が加わり、石垣氏の親戚筋でもある古老田中氏も賛同して連日新聞各紙を騒がす勢いになっていった。

 こうして平成会と人数的には拮抗する9人の大きな会派が新結成された。「新しい政治の流れを!!」との願いを込め『新政会』と命名されたこの名前は、当初ベタ過ぎてあまり好きではなかったが今ではとても馴染みを感じる。個人的には『烈風会』『フロンティア21』、八木橋氏と二人きりの時は『やぎくま牧場』などの希望があったが、これらのアイディアは残念な事に八木橋氏を含め誰からも相手にされなかった。

 当然と言えばそれまでだが、平成会、新風クラブによる新政会への手荒い歓迎は、早くも改選直後の6月定例会から始まった。

 我々には『アラマサ』のあだ名がつき非保守、非市政与党との括りが入った。私はそれまで野党と呼ばれた経験がなかった為、どこか下野した気分であった。「人数は多いが一つの結果に過ぎない。いたずらにポストを求めない」との八木橋会長代行の言葉が善意(?)の拡大解釈をされ、「新政会はポストを一切求めないそうだ」になっていった。

 「市民の代弁者として責任あるポジションに就き、いい意味での指導力、影響力を持って働くのは議員の責務でもある」との方針を打ち出した時は既に遅く、会派間の協議も間々ならぬうちに決戦投票になってしまった。平成会と新風クラブ、公明党の連合軍(過半数の14人を占める大勢力との戦いであった)に結果は惨敗、議長、副議長、監査委員はおろか常任委員長4人、特別委委員長1人に至るまで計8つのポストは全て彼らに独占されてしまった。

 ポストを自薦してまで固執するのは、私的に言えばそれは醜い行為である。しかし市民の注目期待を集めた新会派なのだから、是々非々の健全な市政運営の為我々が要職に就く事は決して自分達の驕り高ぶりだとは思わない。むしろこうした形でポストを全て逃した事は「精一杯やったけどダメだったね」「何の裏取引なく負けたんだから仕方ないよね」では済まされない。我々9人に一票を投じてくれたたくさんの市民の期待に早くも応えられなかった・・・なのである。

 元社民党、無所属、民主党系、自由党系、自民党員らによる、採決に際して会派統一意見を強制しないある意味奔放な新政会の第一歩は、この大きな敗北から始まっていく。だが、新政会が前面に打ち出した是々非々の精神は、紛れもなく私が街頭で声を枯らして叫んだ自分の政治信条そのものであり、私はこの会派こそ自分が所属すべき場所だと確信していた。

 だが是々非々のその難しさはいきなりやって来た。厚生常任委員会に配属された直後の私を待っていたのは『砒素汚染土壌の洗浄事業について』(後述)であった。地元市民、議会、企業を巻き込んだ、生涯忘れ得ぬ公人として初の洗礼であった。

 2年後の現在(4/15知事選惨敗直後)、人事改選を目前に控え新政会は激震している。

 敬愛して止まぬ仲澤誠也氏が過日氏の自宅で脱会を示唆した。「保守本流の大道を行く。遺族会と自由民主党は昵懇の縁、二人の議員から後継した地盤も今や保守本流自民党の大票田である。これは私の個人所見でもあり後援会の総意でもある。しかし今までの間新政会にいて良かった。どうだ一緒に来るか?」

 氏の眼差しは私ごときの反論を許さぬ完膚なきまで頑なな決意であった。仕事場の食堂で見せるまるで少年のようなあの優しい笑顔ではない、一人の「もののふ」の厳しい眼差しであった。

 昨年冬議員有志の集まりの時、十和田ホテルまで氏の車の助手席に乗り(私が運転するしないで大町の真ん中でいきなり口論)、二人で腹を割っていろんな話をした。まるで亡き父國昭と話をしているような気持ちでいられた優しい時間であった・・・。

 精彩を欠いた昨年後半、一緒にコーヒーを飲んだ時の「お前を困った息子のように思っている。家庭を持ち子供をつくり、一生懸命働いて市民の為になる大きな議員になれ。これからだろうがお前は!」。私は帰り道で泣いた、大きな声で・・・。

 氏とのこの2年が脳裏をよぎった。「一緒について行きたい!」「どうして平成会なんだよぉ!?」「俺は一緒に辞める訳にはいかない!!」「新政会で一緒に頑張ろう!頼むから辞めるな仲澤誠也!!」いろんな考えが交錯した・・・。

 最後に私が決めた答えは新政会残留であった。一部の保守系議員の冷笑や非難は今まで仲澤誠也一人が全て受け止めてくれ、私はその風避けの中で言いたい放題やりたい放題やってきた。これからは新政会只一人の自民党議員として頑張らなければならない。

 氏を恨む筋合いなど微塵もなく、今までの感謝を決して忘れず胸に刻んでいる。だが党も立場もない是々非々の本道を行くこの会派を更に熟成させ次世代に伝えていく為にも、今ここで自分は辞める訳にはいかない。地方自治の議論に与野党の別など必要ないし、またあってはならない。仲澤のオヤジも悩んで決めたに違いないし、あの濁りのない言葉とその決断に間違いなどは絶対ないと断言できる。

 平成会には言語道断な輩もいるが議員として尊敬に値する先輩も多い、それは新政会でも同じだ。でも自分も間違ってはいない、初当選して会派ができた時のあの新鮮な感動は絶対間違いではない。

 二人の選んだ別々の道の何れが誤りかどうかなど誰が決められる術もなく、また今は正解など何処にもなく、この道の果てに「あの日の二人が分かれ道を進んで・・・」なる後日談らしきものがポテッと落っこちているだけなのだ。

 いずれ意見集約できない事での問題はあろうが、新政会の結成は連綿と続いていた「55年体制と組合の旗振り対決を踏襲する大館市議会会派構成」に一石を投じたどころか、当市議会史に刻まれる快挙であるに違いない。私達新政会の歴史は今始まったばかりなのだ・・・。

 

                      新政会

    明石宏康