(圧倒的勝利を信じてひたすら叫んだ日々)

 

続 怒濤の選挙戦!!

風は吹いたか?

 

  現職議員としては初めての選挙となった今回の15年統一地方選、告示前日までのドキュメントは当サイトのエピソード7(後援会アラカルト)内の『風の如き侍達の新たなる戦い』にて詳説してあるので、是非そちらを一読してからこちらに戻って読んでいただきたい。

 いよいよ4月20日を迎えた。私は告示当日の朝3時まで眠れなかった。何も考えず爆睡した4年前の初出馬の時とは明らかに違う。言いようの無い緊張感は実に心地良いのだが、今回は11人もの大量の新人候補に挑まれており、その11人を含む他のライバル候補達の力量がわかるようになっただけ私は選挙に慣れ始めていたのだ。勇退した平泉庄治議員の後継者でもある公明党公認の斉藤則幸氏(48)はダントツのトップ候補と称され、同じく勇退した吹谷柳太郎議員の後継者の佐藤久勝氏(59)も上位当選確実の下馬評であった。他にも大票田の二井田地区から出馬した小畑淳氏(50)も上位当選確実など強敵の新人候補がズラリと並び、現職陣営は危機感を募らせていた。前回武運つたなく辛酸を味わった佐々木公司氏(55)と成田武氏(55)も今回は死んだ気になって挑んでくるだろう。市議選は現職、元職、新人が入り乱れる前回以上の大混戦の様相を呈していた。

 だが、当方とて前回の自分達では無い。たとえ候補者とスタッフ全員が若手であろうとも、選挙の修羅場を気合いと根性でくぐり抜けてきた猛者共である、そう簡単にボコにされてたまるかという気持ちは少なからずあった・・・いや、むしろ奇襲戦法ではない上位当選により他陣営を正面から打ち破ってアッと言わせてやろうという闘争心の方が強かった。

 次世代の政治参加が日本を変える原動力となる日が必ず来る、今は全国に点在する小波のような私達若手議員でも、いつか大きなうねりとなって世代交代は一気に加速する。ライバル福原が国会議員の秘書になって勇退した現在、当市の30代候補は私一人だ。次世代参政の流れを自分で断ち切る訳にはいかないとの大きな気負いが私にあった。この小さな街の中では、どこの家庭でも少なからず多くの議員と地縁やつながりがある。選挙前市内一円を挨拶回りした時、そんなしがらみ満点のこの街にあっても、たくさんの高齢者の方やスタッフの紹介で知り合った多くの市民の皆さんから暖かい激励を受けていた。私のような一期目の青年議員を信じて1票を投じてくれる人達に、他のベテラン議員に負けない結果を示したい!!若者だってやれるのだという叫びを刻み込みたい!!・・・上位当選による大勝利が至上命題なのだと私は自身に日々言い聞かせた。

 

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 立候補の届け出には前回同様自分で出かけた。他陣営のスタッフにはまたしても「この若僧、また自分で来てやがる。スタッフいねぇのかよ?」みたいな視線でジロジロ見られたが、悪いがそんなのはもう慣れっこだ(苦笑)。今回はスタッフの川田も市役所に同行してくれた。私の付き添いというよりは、あの独特の異様な雰囲気に驚いていたようである。

 届け出を無事に終え選挙事務所を開設する、いよいよ長く短い一週間が始まる出陣式には親戚、近所の商店主の皆さん、友人知人らを筆頭に多くの方達が応援に来てくれていた。選挙の総括責任者で後援会長の木次谷が挨拶というよりはシャウトに近い演説をぶった。隣りで聞きながらしみじみ思う・・・「こいつは4年前のあの日と変わらない・・・いや、変わらないからいいのだ」・・・私も負けじと入魂のシャウトで応戦した、『皆様の大きな期待に応えるべく、一週間後のこの場で圧倒的な大勝利のご報告を皆様にすべく、7日間全力で戦い抜いて帰ってきます!!』・・・こうして私の生涯二度目の選挙は幕を開けた。

 (勢い良く出発してから僅かに3分、ふとバックミラーを見ると・・何と!!車内後部から炎が上がっているではないか!!配線が過熱して燃えていたのだが程なく鎮火、修理もすぐ終わり、最初は驚いたが『今回は勢いが違うなぁ。こりゃ幸先のいいアクシデントだ、さあ頑張ろう!!』と笑いながら再度出発した・・・今こうして思うに、あれは警鐘というか大苦戦の前兆であったのだろうか?

(初日だが他のみんなはポスター貼りの為、選車1台総勢4名での出撃)

 

 期間中は2日間を除き雨天が続き、どこの陣営も大変であったに違いない。窓を全開にしている為、背広はグシャグシャ、手袋はビショビショ、これには参った。握手した時「冷たい!」と何度か言われて困ったが、だからと言って窓を閉め切って選車を走らせる訳にもいかないのだ。逆に若さをアピールするチャンスだと半ば強引に割り切って雨中を走りまくったが、傘もなくあんなに元気では反対に変人扱いされかねない・・微妙である。

(走っては握手とお願いを黙々と繰り返す、選挙の鉄板)

 

 前回同様、私の選挙運動のメインとなったのが街頭演説だ。1日6〜10回ほど、10〜15分の演説を市内随所で行うのを考えれば、これはかなりの時間配分だと思う。私達には30〜50名ほどの有権者の方達を連日集会所などに動員して個人演説会を開催する力は無い。これは言わば我々の弱点なのであろうが、私はこの短所をあれこれ思案するよりも、機動力と根性と体力に物を言わせて、長所でもあるこの街頭演説に全力を傾注する事にした。

 木次谷や大坂に応援演説をしてもらっている時には手を振りながら周囲が良く見える時がある。目の前で叫んでいるのに全く聞いていない人、ウゼェーって顔に書いてある人、どうでもいいって感じの人・・・選挙などどこ吹く風である。だが、決してそんな人達ばかりでは無い。こちらを一切見ないけど演説に時折うなずいている人、笑顔で手を振ってくれる人、クラクションを鳴らしながら傍らを通過していくドライバー、車内から大きく身を乗り出して「ガンバレー」と大声で叫ぶ人などなど。街頭からの演説が選挙期間中で唯一候補者の肉声を聞く機会である人も少なくない筈だ。名前の連呼であれば選車走行中のウグイス嬢に任せれば良い。私は私の考えている事、しようと思っている事を短時間で相手に伝えられる演説を叫ぶ事で、一人でも多くの市民に『明石ひろやす』を伝えるのだ。

(交差点は必ずいずれかが停車している、演説には絶好の場所だ)

(ありのままに自身の考えを叫ぶ、何の虚飾や誇大も無く・・・)

 

 期間中、私が叫んだ事は大きく要約すれば以下の3つである。これに自身がこの4年間で初めて議員を経験して感じた事を加えながら述べた。

 @『是々非々の政策討論』こそ市政発展に必要。自身の利害関係に捉われず、言うべき事は胸を張って言い切る。時には少数派で採決に敗れようとも、正しいと信じた事、おかしいと確信した事は声に出して叫ばなければ街は何も変わらない。

 Aハードは整備されてきた。しかし市内一円足元を見渡せば、改善や改修、要望など喫緊の課題は山積している。小さくささやかな事に見えても当事者には深刻な要望である事もある、私はそうした声が届く、声が聞こえる議員でありたい。

 B次世代を担う少年少女達に膨大な債務の償還を先送りするだけの大人ではいたくない。「この街で頑張ろう」と暮らしたくなる街にする為に私達がしなければならない事はたくさんある筈。私は不満や失望だけでは決してなく、夢や希望を伝えられる議員でありたい。

 連日街頭で声を枯らしながら、ふと気がついたが、話している内容は違うが、要旨は4年前私が叫んだ当時の公約と何ら違いは無かった。この任期中には様々な出来事があったが、こうして初出馬当時と同じ気持ちで街頭に立てた事は、一見当たり前のようでもありながらも私にはとても嬉しい事であった。

 選挙結果は芳しく無く、自身の不徳と反省の極みであったが、この街頭演説を主軸とした告示後の選挙運動の展開スタイルは絶対に間違いでは無い、それは辛勝した私にでも言える確かな事である。

(もう何度こうした街頭演説を行っただろうか?)

(片山アピア前は朝宣、夕宣と連日叫びまくり)

 

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 選挙は、有権者にお願いと御礼を繰り返す大型イベント!?と相場が決まっている。それは勿論だが私は36年間今まで生きてきて、今回の選挙ほど『仲間達に支えられて生きている』、その事への感謝と感動を感じた事は無かった。私を応援したから殊更に公共事業にハマれるようになる訳でも無く、仕事上何ら有利になる訳でも無く(むしろ嫌味を言われる者もいるだろう)、時に打ち出すあまりに奇抜な行動の数々に幾度となく困惑&絶句しているであろうし、全く容赦を知らない最短&最強の解決手法の連続に激論や衝突も絶えなかった事もあった。

 しかしそれにも関わらず豪雪の中高熱で倒れるまで私と町内全戸ローラーをしてくれた友人、告示まで連日連夜後援会事務所で働き続けてくれた友人、最終日の最後の街頭演説を涙を流して聞いてくれた友人、思いもしなかった開票結果に人目もはばからず号泣した友人、選挙事務所に泊りがけで朝まで悔しい酒に付き合ってくれた友人、私の予測の甘さを激しく非難しながらも4年後に向けて早くも手伝ってくれている友人、そしてこんな私を暖かく見守って支援してくれるたくさんの市民の方達・・・・私が議員として言いたい放題、戦いたい放題戦っていられるのは、微力な私をいつも彼等が取り巻いてくれているからなのだ。NHKの『武蔵』ではないが、「人は一人では生きてはいけない」。勝負事には今一つ満足な結果を出せない私だが、自分は本当に幸せ者であると心から思う。

(大勝利への道はまだまだ遠いが、私達の「可能性」は最強だ)

(清水川?の山の中で大坂と一服タイム。この日は最高の快晴)

(選挙運動が終わっての食事はまさに地獄で仏?)

 

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 市長選と同時であったので開票はかなり遅くなってから始まり、当選が確定したのは午前零時近くであったような覚えがある。26位、1,044票であった。当選の御礼を述べようとした時、己が非力と予想だにしなかった結果に突然涙がにじんで目が真っ赤になり、今にも溢れそうになった。だが肩を震わせて泣いている妹、隣りで号泣している友人を見て「ここで自分は泣いてはいけない。」と痛感した。参集してくれている誰のせいでも無く、大勝利確実と勝手に言い聞かせていた私自身の不必要な気負い(結果として油断)、そして「票の上滑り」の本当の意味と怖さを知らなかった私自身の不明・・・・選挙とはかくも恐ろしいものなのか?私は二度目にして、恐らく初めて選挙を知った。

 

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 当選してからの事など殆ど考えていなかったが、二つだけ心に決めていた事があった。市町村合併同様当市の重要施策でもある市立病院の増改築事業を審議する厚生常任委員会への配属を志望して、同時に委員長ポストに名乗りを上げる事と、もう一つは仲澤誠也議員と所属会派を同じくして行動を共にする事だった。後者は後に自身の会派『新政会』を離散させる引き金の一つともなるが、当時の私はまだ知る由もない。八木橋議員や大坂谷議員との訣別の時はもうすぐそこまで迫っていた・・・。

 

                      2003年9月

大館市議会議員   明石ひろやす

                    

(私も木次谷もまだまだ強くなれる!!今度こそ!!)