『陽射し溢れるこの道の上で・・』

 

 「残念ですが、もってあと1年の命です。」夕刻が近くもう誰もいないせいなのか、労災病院の外来病棟で母は号泣していた。父明石國昭は胆管ガンを煩っており手術は恐らく無理との検査結果であった。祖母イネが末期ガンで入院加療中のさなかであり、私は家族猛反対の中、選挙の出馬表明を目前に控えていた。
 1998年の夏、あの暑い病棟の光景を私は恐らく生涯忘れる事ができない・・・。

選挙事務所内に飾られた遺影 「父容態急変につき危篤、すぐ来院されたし」の報を受けたのは翌年1月下旬、その時私は家業で鹿角市にある「ホテル鹿角」のブライダル・フェア会場にいた。母をすぐ病院に向かわせ私はひたすら笑顔でセールスを続行した。その当時テナントの阿部写真館でブライダル・ビデオをセールスしていた、親友の山口努が私の変わりに流した涙・・・。
 数時間後駆けつけた時父はすでにこの世になかった。私明石宏康は父の死に目にすら会っていない。

 議員生活は勉強と経験、緊張と気遣い、僅かな怠惰と微妙な馴れ合い、誠意と時には下心が混じり合った・・・ドリッパーで落としたほろ苦いブレンドコーヒーの様なものだ。似たような入れ方をしているのに、その日の気分によって感じる味覚が違うように、文面にある言葉の受け取り方の些細な違いが、議員個人の政見や立場や感性の違いでやがて意見の違いへと相成っていく。
 「市長は何故こんな事を考えているんだろう?」「この人の対案は何なのだろう?」「この予算はこんな使い道をした方がよいのではないか・・・?」こんな事を本会議中にボーっと考えていようものなら、いつの間にか説明が次のページにいってしまっている。
 いくら私が保守本流だって時には100%納得がいかないものだっていくつかあった。それでも、私は賛成の起立をした。後席では共産党の2人だけがいつものようにムスッーと座っているのだろうか?反対討論の中に大事な指摘があったのだが、(自分は勿論)誰もこの可決に異論すらはさまぬのだろうか?
 市民は是々非々の新政会に期待しているはずなんだ、自分達が時には反対討論するのを市民は待っているはずなんだ、街宣中のあの叫び、「私明石宏康は、当選して議員になったら保守も革新もない新しい会派形成を市民の皆様にお約束します!!私は・・・」、
 閉会後薄暗い螺旋階段を降りるといつもの玄関の外の陽射しの眩しさ、思わず空を見上げてしまう時だってある。小沢さんも鳩山さんもかつて自民党時代こんな気持ちを感じた事があったのだろう。
 休会中たまにはオートバイで旅でもしようか?F・サガンの小説に「旅は日常からの脱却」なんて生意気な言葉があったが・・・。

 最近、私設秘書みたいな事を一生懸命やってくれた女性をよく思い出す。今頃どうしているんだろう?汚いあの選挙事務所に文句を言いながらもそれでも毎日来てくれた・・・。子供を泣かせる度に悲しそうな顔で私を見ていた・・・。
 釣りの時、洗車してる時、食事してる時、悩みを聞いてくれている時・・・いつも必ず彼女はそこにいた。この人と結婚できたらどんなに幸せだろうか?心の底からそう思ったのは、彼女がいなくなってからだった。
 たくさんの仲間や知人、近所や家族の応援、そして何より彼女がいてくれたから私は議員になれた。「一度傍聴してみたいもんだわ」・・・もう二度と断る事すらない。
 2000年12月、二度目の一般質問の時、深呼吸しながら私は傍聴席の隅に父と彼女の幻を思い浮かべた。

 春の陽射しの中をオートバイで走る。家業で使ってる軽ワゴンの選挙カーで何度も何度も叫びながら走ったこの道。かつていつも彼女と子供と三人で通ったこの道。いつものこの道をもう何百回一人で走ったら、どこまで頑張り続けたら父の背中が見えるのだろう。
 21世紀の始まりはかくも辛く悲しい。議員生活への期待と夢、この孤独と悲しさが交じり合い、それはあたかも曲がりくねった道のようなもの。今日も明日も走り続けて行くであろうこの道・・・陽射し溢れるこの道の上で、父と誰かが私を待つ。

 

2001年  パブリック・サーバントなんかじゃない
明石宏康